●反対同盟とは何か(5)

――闘争つぶしと徹底して闘う

 「農民の側に抵抗する時間を与えるな」「一気呵成(かせい)に既成事実を作って押し切れ」――これが、富里・八街空港計画の失敗から得た政府・運輸省、空港公団の反動的〃教訓〃でした。

 さらに、富里・八街との違いは地元千葉県知事・友納武人の全面的協力を取り付けていることでした。反対同盟は、空港閣議決定の直後から、早くも条件派の発生という課題に直面しました。8月25日に開拓部落を中心にして成田空港対策部落協議会が作られ、67年3月6日には古村を中心にした成田空港対策地権者会が旗揚げしました。
 反対同盟は、こうした条件派組織に対して迷わず弾劾の闘いを展開しました。 「部落協」を作る動きが見え出したとき、成田市天神峰部落にあった県の北部林業事務所で条件派の会議が行われているのが明らかになりました。反対同盟は300人ぐらいで押しかけて、取り囲んで弾劾したのです。
 他人の裏切りや脱落に対して、これを許さず、きびしい弾劾の闘いを貫徹するところに、三里塚闘争の必死さと真剣さと徹底性が表れていたのです。
 他の農家が空港建設に協力しようとしまいと、それは「その家の勝手」かというと、そうではありません。いったん空港絶対反対を誓った仲間たちです。そういう決意を誓った仲間同士が、他人の脱落の自由を認めたらどうでしょうか。金と暴力と社会的力という点で圧倒的な物量を持った国に対して、抵抗を貫くことなど不可能でしょう。事実、「裏切る人は自由に裏切って下さい」という闘いだったら、三里塚闘争は1年間も続かなかったでしょう。
また、他人の脱落を批判するということは、その批判が自分自身に返ってきます。自らの空港反対闘争にかけた決意を再確認し、団結をさらにうち固めるためにもこの闘いは重要でした。後に戸村一作委員長は、『権力への敵愾心』の強さが闘いの成否を決めるとくり返し発言しましたが、同種の問題を言い表していると言えます。

 1966年の秋、反対同盟は、県や政府、宮内庁などへの陳情をくり返しました。友納知事の自宅に何度も足を運んだりしました。これらすべてを行政側は、ほとんどの場合門前払いではねつけたのです。「話し合い拒否」は最初、政府、県、市町の側の農民無視としてくり返されたのです。
 一方、議会に対する政府・空港公団の切り崩しも激しくなりました。8月4日には成田市議会の「空港反対決議」(7月4日採択)が白紙撤回されました。芝山町議会でも7月20日に行った「空港反対決議」が12月27日に白紙撤回されました。
 芝山反対同盟は芝山町北部地域に強い力を持っていました。そもそも芝山地区は、隣の富里・八街地区とならんで、戦前からの小作争議の先進的地域でした。農民運動の強固な歴史を持っていました。政党では社会党の影響力が大きく、実川清という衆議院議員を有するほどの勢力だったのです。農村地帯での社会党議員は珍しい存在でした。そして実川清自身、芝山町の千代田農業協同組合の組合長として、組合ぐるみの空港反対闘争を指導していました。
 こうした力を背景にして反対同盟は、「空港賛成」に転換した芝山町議会議員16人のリコール運動を展開して、瞬時に必要な署名数を集めきりました。必要署名数を大幅に上回る署名簿を1967年1月21日、町の選挙管理委員会に提出したのです。ところが政府・空港公団の圧力を受けた選挙管理委員会はこのリコール署名をたなざらしにした上、4月22日から24日かけて全員が辞任し、リコール署名を意図的に時間切れ=無効にする暴挙を働きました。これは完全な違法行為ですが、「空港建設のためであればどんな汚い手段も使う」という、その後42年間、一貫してつづけられた行政側の農民切り捨ての最初の事例です。こうした違法・不法行為は数限りなくくり返され、現在も変わっていません。(つづく)

※写真は当時の様子。左端が北原鉱治事務局長で訪れた人たちを現地調査に案内しているところ。まだ社会党や共産党など既成政党が主導した時期で「日本共産党」の腕章も見える(1966年夏 駒井野にて)
 

  

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