●「赤貧洗うがごとき」―田中正造と野に叫ぶ人々を見て(投稿)

 3月23日、田中正造の生涯をドキュメンタリーでつづった「赤貧洗うがごとき ――田中正造と野に叫ぶ人々」を見て来た。
田中正造と聞くと三国連太郎主演の「襤褸の旗」を想起する。「襤褸の旗」は1974年に吉村公三郎監督が監督し、反対同盟も協力して作った映画だ。あの中で三国連太郎が土そのものを食べる場面は圧巻だった。

 一方、このドキュメンタリー映画は新たな田中正造の発見にとどまらず、国家権力と闘いぬいた農民や労働者たち、女たちの姿も活写されている。田中は17歳で、父の後を継いで名主代行になった。「この頃から大いに農業に励んだ。右手は鍬だこだらけ、左手は鎌傷が耐えなかった。痕跡は当時の勲章だと思っている」と言っている。足尾銅山以前にも年貢の引き上げなどの横暴と闘い、何度か捕らえられ、ひどい拷問も受けたことも。
 足尾銅山は明治政府の庇護の下、最新の設備を導入し、生産量日本一となった。1890年大洪水になり鉱毒水が氾濫した。正造は、学校を卒業したばかりの左部彦次郎に被害調査を依頼し、議会で鉱業停止を求めて、政府を追及する。次男を古河市兵衛の養子にしていた時の農商務大臣陸奥は「原因確定せず」と逃げた。繰り返される洪水。鉱毒被害を無視して、まともな答弁もしない政府。
 正造たちの被害地実態調査では、出生率全国平均の3分の2、死亡率は2・5倍。その調査後、母乳不足に対する被害地の女たちの同士のカンパ活動が始まる。「こんなことは男にはとても思いつかない。日本の婦人運動は決して男には負けないものだ。ぜひ力を貸して欲しい」と正造は妻カツへの手紙に書いている。農民たちは「押し出し」という請願行動に立ち上がる。
 会社は鉱毒を防ぐ粉鉱採集器を取りつける。示談金を支払う。受けたら苦情・訴訟は一切しないという交渉を強行していく。その示談金は6ヵ年ぶんとして、なんと年収の120分の1という、雀の涙以下のしろもの。その尖兵に当初の協力者左部彦次郎がなっている。
 強制収用のなかで田中の避難の勧めにも誰もおうじない。水野常三郎は病身の身を小船に横たえて悠然としている。田中に「せっかくですがお許しください。わたしは死んでもここを離れぬつもりです」声は弱々しいが、堅く決定したものの厳しい響きがひそんでいる――などが朗読、証言、インタビューで描かれていく。
 また、人間正造を想像させるような妻カツとの結婚の時の話、正造とこどもとのエピソード、陸海軍全廃して軍事費を人民の福祉にと主張していたことも取り上げられている。
 けして過去の歴史ではない。政府と財界が一体となって、彼らの階級的利害のために、農民、労働者の命をも平然と奪うこと、これは現代の政府の姿そのものでもある。闘い続ける正造は言う。
世をいとひそしりをいみて何かせん
(厭い) (謗り) (忌み)
身をすてゝこそたのしかりけれ
 わたしたちは、田中正造の精神を受け継ぎ絶対にあきらめずに闘いたい。三里塚の精神こそこれだ。そして「最後に勝利する!」と叫びたい。

  

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