北原事務局長の葬儀おごそかに

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 8月18日午後6時からのお通夜に続いて、8月19日午前10時45分から北原鉱治事務局長の葬儀・告別式がナリコーセレモニー寺台ホールにてとりおこなわれました。
 関東各地で激しい雷雨となる悪天候の中でしたが、式が始まる頃には雨もあがり、各地から駆けつけた300名近い皆さんの列席のもと、おごそかに式が進みました。ホールの一角には、生前の北原さんの奮闘ぶりや家族との日々を記した写真・ビデオのコーナーが設けられ、参列した人びとが思い出話に花を咲かせました。
 式の中では市東孝雄さんが弔辞を読み上げ、北原さんを追悼し、遺志を引き継ぐ決意を表明しました。
 式の最後には、長男の北原健一さんがあいさつし、列席への謝意と「100分の1にも満たないが」と控えながら闘いを引き継ぐ決意をあらわしました。

 市東孝雄さんの弔辞を紹介します。

               弔 辞
                       
 北原鉱治さん、あなたの遺影を前にして、元気だったころの姿を思い起こしながら95年の生涯と、51年もの長きにわたって反対同盟の重責を担ってこられた、あなたの偉大さにあらためて尊敬の念をいだいています。
私が父親の死後成田にもどり、父の後を継いで農業に従事してはや18年がたちました。そのかん、北原さんや今は亡き萩原進さんをはじめ多くの先輩方とともに、私も空港反対闘争を闘ってまいりました。そんな私でもずいぶん長い年月が過ぎたなと考えるのですが、北原さんは私の3倍も長い年月、闘いにつぐ闘いの日々を、送ってこられたのかと思うと本当に敬服いたします。

三里塚の闘いは国策に反対する闘いですから、権力の弾圧と向き合う毎日です。北原さんは反対同盟の代表として、国策の重圧、権力の暴虐を一身に引き受け、あらゆる困難とたたかって闘争を牽引してこられました。北原さんの存在なしには、ここまで反対同盟は闘ってこられなかったでしょう。いまはただご霊前にむかって、心から「ありがとうございました。ゆっくりとお休みください」と申し上げたいと思います。

北原事務局長は三里塚で呉服屋さんの商(あきない)をしながら、一身をなげうって戸村委員長と共に反対同盟結成に加わったと聞いております。それは大変なことだったと思います。しかも権力だけでなく革マルや右翼の敵対といやがらせもひどいものだったと聞いています。51年間のご苦労は並大抵のことではなかったはずです。それを支えてこられたお連れ合いのきのさんや、健一さんはじめご家族のご苦労もまた大変なものがあっただろうと察します。

 北原さんは、71年の代執行阻止闘争では、反対同盟の指導者として率先して地下壕に入り、文字通り命がけで闘かわれました。穴ぐらのなかで4日間、酸素不足と頭上を走り回るブルドーザーによる生き埋めの恐怖を振り払って戦いぬき、権力を震え上がらせました。このときの逮捕をはじめ、近年89歳での逮捕まで4回の逮捕にも屈することなく、最高幹部としてぶれない信念をつらぬいてこられました。
 81年暮れの石橋副委員長らの話し合いや83年の3・8分裂攻撃など、くり返しおそいかかる同盟破壊攻撃をはねかえし、北原さんが矢面(やおもて)にたって、絶対反対の基本路線を守り抜いてくれました。ここでふんばりぬいたからこそ、反対同盟の今があると思います。
 さらに北原さんは成田市議としても、4期16年にわたって私たち市民の代弁者として活躍されました。

現在、私の農地裁判も、北原さんが全国に呼びかけた運動の成果として、最高裁の判決が出ても、強制執行を阻止し続けるという勝利的前進をかちとっています。さらに第3滑走路建設という無謀な地域破壊計画に対しても、新たに闘いの機運が燃え上がっています。
沖縄や福島の怒りは三里塚50年の怒りとひとつです。安倍政権の改憲と戦争に立ち向かうために、労働者・農民の団結と国際連帯を発展させて闘います。「若者たちの未来に戦争を繰り返させない」と、北原さんが常々語っていた願いを私たちが受け継ぎます。どうか見守っていてください。
先に逝かれたきのさんと二人で天上から、お孫さんやひまごさんの行く末をあたたかく見守ってあげてください。

2017年8月19日

三里塚芝山連合空港反対同盟 天神峰・市東孝雄

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