●空港反対同盟とは―三里塚闘争小史(4)

10・7集会宣伝ビラ
条件派結成への会合を包囲し弾劾する
反対同盟(19966年8月24日)
成田市天神峰の県北部林業事務所
 富里・八街空港計画から三里塚に変更された理由の1つが「開拓農民が大半」「貧乏だから金に弱い」という開拓農民蔑視でした。富里では一軒あたり4任發稜醒呂鯤殕する優良農家が大半を占めていました。そのことが、前述した激しい反対闘争の理由になったことは事実です。しかし「貧乏な開拓農民だったら金に弱い」というのは、とんでもない見込み違いでした。

 当時は敗戦から約20年。戦前、お国のために、言葉で表せない犠牲を強いられた引揚者たちが、原野に入植して、やっと生活のメドも立ってきた時でした。「またお国の都合で人生を左右されるのか。それは戦争でこりている。もうごめんだ」という強烈な思いが彼らにはありました。また、「猫の目農政」と言われた政府の農業政策そのものへの不審も根強くあったのです。
 政府の方針は、反対運動が組織される前に空港建設計画を正式な閣議決定に持ち込むことに眼目をおいたのです。説明もない、ただただ拙速と強権で農民を黙らせよう、というのですから、三里塚・芝山の農民が怒ったのも当然でした。
 そして1966年7月4日に閣議決定が強行されました。7月30日には新東京国際空港公団を発足させました。政府の動きは速かったのです。
 8月にはいくつかの部落のボスを抱きこんで、条件派組織を結成させました。こちらも必死の運動作りで佐藤政府の暴政に対抗していきました。
 一方、寝耳に水の空港計画に怒った農民たちは空港案を聞いた(6月22日)翌日から、部落ごとの会合を重ね、6月28日には成田市遠山中学校で三里塚空港反対同盟(戸村一作委員長)を発足、30日には芝山町芝山中学校で芝山空港反対同盟(瀬利誠委員長)を立ち上げ、7月10日に両者は統合された。

 結成された反対同盟は羽田空港、百里基地(茨城県)、厚木基地(神奈川県)、などへ現地調査をくり返し、航空機騒音のひどさを体験して帰って来ました。北原鉱治事務局長は羽田空港の労働組合に招待されて同空港を視察した時、米軍がベトナム戦争のためにチャーターしているボーイング707機を現場で見て、機関銃の弾痕が多数ついているのを確認したと証言しています。
 「なるほど、日米安保があるかぎり、民間空港でも軍用に使われるのだ。だったら三里塚闘争のスローガンのひとつとして『軍事使用反対』をかかげよう」と同盟に提案し、採用されたのです。
 このころ、反対同盟の団結強化にとって大切だったのは、条件派組織弾劾の闘いを積極的に展開したことでした。「自分は自分、他人は他人」という考え方では、国家権力を相手にした闘いはできません。団結を守ることは不可能です。
 空港反対闘争に立ち上がった農民は必死でした。
 「裏切りを許さない」という闘争原則は、生活と家族をかけた真剣な闘いであればこそ、あまりにも当然な反対同盟の闘争原則になっていったのです。この原則が、41年たった今日至ってなお、三里塚闘争が崩れない闘いの基盤を作ったのです。
 霞ヶ関では、1966年7月に、米価審議会が大荒れに荒れ、会長・楠見義男が「答申不能」として辞任する前代未聞の事態まで起きていました。米価を抑え込んで農民を切り捨てる動きに農民代表が反発した結果でした。穀物自給率は1960年の83%から65年61%へと戦後最大の落ち込みを見せていた時でした。
 三里塚農民への農地取り上げの攻撃はこうした農業破壊・農民切り捨てを通した食費値下げ=賃金抑制の政策と表裏一体だったのです。

  

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