反対同盟とは何か(6)

 1967年春、条件派2組織(成田空港対策部落協議会と成田空港対策地権者会)は代替地の配分で確執を続けていました。「反対派に勢いをつけさせない」ことを最優先に考えていた政府・空港公団は、条件交渉が膠着することを最も恐れていました。そこで、条件2派との合意のため、運輸大臣自らが成田に乗り込んで、決着させることを狙ったのです。

 67年6月26日、大橋武夫運輸大臣(当時)が条件派農民と面会するために成田を訪問することが発表されました。
 反対同盟がこれを見過ごすわけがありません。当日、1000人の農民、労働者が京成成田駅のホームを取り囲み、運輸大臣と友納武人千葉県知事の市役所入場を阻止しようと待ち構えました。三里塚空港計画の最高責任者が成田に来るのです。直接抗議して、条件派との会談を阻止しようという方針が立てられました。それまでの陳情や申し入れとは明らかに違うものでした。
 運輸相が駅に到着するやいなや農民たちは殺到しました。そして阻止線を張ってこれ阻止しようとする機動隊と乱闘になりました。
 反対同盟の数と必死さは警察権力の想像をはるかに超えていました。阻止線を破られた権力は、大臣と知事をかろうじて駅長室に逃げ込ませることしかできませんでした。それでも反対同盟農民によって1時間以上缶詰めにされたのです。「おれ達の抗議も聞き入れず駅長室に逃げ込むのか!」。あたりは騒然となり、闘いは駅長室のドアを蹴破って大臣を引きずり出す勢いとなりました。

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 ところが、ここで大臣と知事に助け舟を出したのが赤ダスキの社会党議員団でした。彼らは農民と機動隊の間に割って入り「これで本日の闘いの目的は十分達せられた」と2人を助けようとしたのです。顔を知られていない大臣と知事はこの一瞬のスキをついて駅長室を抜け出し、裏口から市役所に入ったのです。
 一方共産党は、実力阻止行動そのものに反対しました。こうした闘いには加わらず、部隊を後退させ、シュプレヒコールで「大臣は帰れ」と遠吠えしていただけでした。
 こうして結局、条件派との会談は行われましたが、この日の闘いは農民たちの怒りとエネルギーの大きさを満天下に示して余りあるものでした。権力を相手にした初めての大衆闘争だったのです。条件派との合意で一気に空港問題の決着を目指した政府の思惑は吹き飛んでしまいました。
 同盟の意気は上がり、“実力をもって闘う”ことの確かな手応えを感じました。
 ちなみにこの闘いに初めて千葉県反戦青年委員会が参加しました。

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 この時期、農政も転換期をむかえていました。1965年からアメリカの対日貿易は赤字となり、逆に日本の対世界の貿易は黒字基調になりました。円高による対外輸出の減少を避けたい政府と財界は、農産物輸入の拡大によって貿易黒字を回避する政策を開始していったのです。財界から「農業近代化への提言」(1964)、「明日の日本農業への展望」(1966いずれも経済同友会)、「国際的視点からみた農業問題――我が国農業の未来像」(1965=日本経済調査協議会)などが発表され、「経済ベースに乗る国際農業への脱皮」が早くも要求されていました。
 ちなみに大規模農業のモデルケースとして、秋田県大潟村への第1次入植が始まったのは同じく1967年でした。その大潟村の大規模米作ですら今や経営ができないところにまで、今日農業破壊が進んでいますが、その出発点も1967〜68年だったのです。(つづく)
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(写真解説)
 1967年、大橋運輸大臣の成田訪問阻止闘争が闘われていた頃、減反政策(1971年本格開始)にむかう農業切り捨てが本格化していた。大規模農業のモデルとして秋田県大潟村では入植が始まった(写真は入植者に農業を教える入植訓練所開所式)。しかし、このモデル地区ですら、米価暴落で破産者が続出しているのが今日の農業切り捨ての現状だ

  

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