反対同盟とは何か(7)

 1967年8月、千葉県は空港建設工事の第1歩である、外郭測量の公示を行う方針を発表しました。ついに具体的な工事の開始が宣言されたのです。これに対して反対同盟は8月15日、500人が千葉市まで出向いて「測量の公示中止」を求める集会と県庁前での徹夜の座り込みを敢行しました。この闘争で初めて少年行動隊が闘いに参加しました。

 少年行動隊は、反対同盟の子どもたちによって組織された行動隊で、小学生、中学生を集めて1967年8月5日に結成されました。この後、1970年の強制測量阻止闘争や1971年の代執行阻止闘争で活躍し、自分の学校の教員・職員への呼びかけ・弾劾や同級生へのアピールも積極的に行い、前後約5回の同盟休校闘争を闘い社会的にも注目を集めました。

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 反対同盟の抗議にもかかわらず県は、「土地収用法に基づき8月23日から事業準備のための立入測量を実施する」と公告しましたが、同盟のいっそうの抗議でいったん延期しました。しかし、これは同盟の意気込みをそらそうとの迂回策で、測量の実施は時間の問題でした。反対同盟は「工事の開始」という事態に緊張し、臨戦態勢に入りました。8月21日から3日間、婦人行動隊が松戸市の友納武人知事宅近くでテントを張っての抗議の座り込みをやりぬきました。27日には地元で緊急抗議集会。9月15日には三里塚第2公園で2000人の阻止集会。そして18日は早朝から1000人が測量阻止現地大演習行動を展開したのです。
 当初、反対同盟は測量日を10月5日早朝とみて、4日夕方から天神峰で700人がタイマツデモで体制を固めしたが、県と空港公団は裏をかく作戦に出てきました。
 測量隊と機動隊がやってきたのは10月10日だったのです。「体育の日」の休日を選んでの“急襲”でした。クイ打ちの場所は成田市駒井野、三里塚、十余三の3カ所。多くの同盟員が次のように回想しています。
 「あの時の光景は忘れられない。機動隊と対峙するのは生まれて初めて。早朝、朝もやのむこうから黒々とした集団が姿を現し近づいてくる。映画のシーンのような経験だった。同盟は部隊を3つに分け座り込みで抵抗したが、力にものを言わせたゴボウ抜きにやられた。みな必死だった。ところが共産党は『道路交通法違反になるから座り込みを解きましょう』と言って歌を歌い出した。がく然とした」

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 共産党は66年閣議決定の直後から最大級の現地常駐体制を取り三里塚闘争への介入を強めていました。数百人を動員した「援農」オルグで一時は天神峰部落だけで数十戸の赤旗有料読者を獲得したとまで言われました。
 ところが同党の目的はあくまで選挙の「票」獲得でした。そのために空港反対闘争を利用したのです。富里・八街闘争で社会党が“大戦果”をあげ、衆議院選千葉2区で定数3のうちの2議席を獲得したのを見て「二匹目のどじょう」を追おうとしたのでしょう。
 しかし反対同盟の闘いは体を張った実力抵抗闘争へとのぼりつめていきました。その背景には、前回も指摘した農民・農業切り捨てという問題があったのです。国内農業を切り捨てて、農産物輸入自由化の道を歩まないと「輸出立国」が立ち行かない政府・財界と、そのために生きる道を閉ざされる農民。対立は深刻であり、妥協の余地はなかったのです。そのために、衝突は激しさを増す一方となったのです。(つづく)
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(写真解説)
圧倒的な数の機動隊、測量隊による空港建設工事のための外郭測量に対して、座り込みで対決する反対同盟(1967年10月10日)


  

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