労農連帯の旗高く−萩原講演録(1)

――「農家を継いでくれ」と言えない時代

 今日は専門の人たちもおいでになってるという話も聞きました。、また農家出身の人が多いという話も聞きました。そうすると今、農家の担い手、後継者がいないという非常に大きな問題があることをご存じの方は多いと思いますが、農家の親父さんやおっかさんが息子や娘に「農家を継げ」と、あるいは「後継者になれ」ということが言えない時代になっている。自信を持って家を継いでほしいという農家は本当に少ないんじゃなでしょうか。

 農家を継ぐ人は統計的に全国で年間1000名程度だと言われています。これは中堅の会社の入社式に匹敵する人達しか就農していないということで、千葉県1県を見ても何十人程度でしょう。農業県といわれるところでもそのくらいですから、関東地域に限ってみても農業地帯がどんどん失われているのは間違いない。しかもせっかく農業を継いだ若者が、数年のうちに壁にぶつかって離農しているんです。
 もっと例を挙げれば千葉県の中では純然たる農業高校というのがなくなっちゃったんですね。いわゆる農業科、畜産科、園芸科というのがなくなって、何々情報とか土木とか造園という形になった。ひどいのは空港整備科、車両整備科というのが設けられて、空港そのものの、あるいは地域開発のための人材を作るための学校に変わってしまった。農業をやろうとする環境そのものが取りこわされているんです。

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 なぜかという大きな理由として、農産物の価格の低迷があります。
 ご承知のようにスーパーの売り出しで1パック100円のたまごがもう何十年も売られているわけでしょう。20年、30年価格が変わらないわけですよね。じゃあ豚肉がどうかというと、やっぱり同じですよ。そういうのは実質的な値下げですからね。米の価格はどうかというと半値になっている。果物はどうかというとやっぱり外国産に負けちゃう。あらゆる部門でおかしくなっている。しかも農民自身が作って農民が価格をつけられない。そのような経済のしくみができている。

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 そういう現実を招いている農業政策に怒りを感じながら、私たちは40年という年月を空港問題と向き合ってきたわけです。だから1971年に強制代執行を目前にした時、やはり日本の政策は、高度成長の中で農地取り上げの時代に入ったんだとはっきり捉えられたわけです。だからこそ「日本農民の名において収用を拒否する」という形で代執行の地に高々と旗を掲げたわけで、今でも思い出します。
 当時、東京オリンピックとか高度成長ということがあって、公共事業の名の下に、どんどんどんどん土地が「開発」という形で荒らされていった。そして一方ではそのための労働力をやはり大きくは農村から収奪していった。そういうやり方を私たちは空港問題の中に見てきたわけです。
 たとえば成田空港の計画面積は1060ヘクタールなんですね。実際にはそこからまた拡大されて、1100ヘクタールくらいになってるだろうけども、それだけでの話ではありません。鉄道を引く、道路作る、あるいは駐車場作る、ホテルを作る、物流基地を作るという形で、その何十倍、何百倍という土地が供用されちゃう。巨大な空港都市が形成されていく。今までの原型が全部変えられていく。東京から60キロ70キロ離れた山の中に突然ボーンと空港というものができたおかげで、その一体がいきなり全部開発の名の下にコンクリートの下敷きになっちゃうというね。そういうものが5年6年の中で出現しちゃったわけです。
農民放送塔
「日本農民の名において収用を拒む]と立ち上がった三里塚農民(1971年3月5日 農民放送塔=第1次代執行)」
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 第一次案で空港建設予定地になった八街、富里や我々の成田を中心とした一帯っていうのは、日本の中でも有数の農業地帯だったんですね。ですから、県知事も二の足を踏んで、なかなか空港建設にゴーサインを出さなかったわけです。それほどのところが今では空港の存在を背景にして、都会とのパイプができて八街、富里も都市化されて、農業がどんどんどんどん後退していくというような状況になってきたわけです。
 ですからこの空港問題は、今日いわゆる第一次産業と言われる農林水産業が日本全国で壊滅的状況に置かれているということの典型としてあるんじゃないでしょうか。自然の中で、自然を守りぬいて、他の動植物も含めて人間には欠かせない根源とともに生きていくという大きな立場が今まさに崩壊の危機に直面しているんです。

  

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