●「私は、三里塚とともに今日も田畑で静かな革命をおこします」(投稿)

――鈴木幸司さんの稲刈り援農に入って
  三里塚の野菜で育った娘より

■ぼんやりとした思い出から推測すると、たぶん20年ぶりの三里塚です。子供の頃、私は母に連れらて、この地を何度も訪れています。
■遠くで大人たちが水を吹き付けられているのを丘にかけ上がって、友達と一緒に興奮しながら見下ろしたり、デモの先頭に立ち誰よりも大声を出すのに夢中になったり、イモ掘りをしたり、おやつのさつまいもの皮をむかずに食べる女の子が気になってしかたがなくて、自分は絶対に皮をむいて食べるんだと心に決めたり、男の子ととっくみあいの大げんかをしたり、都会育ちの私にとっては唯一の田舎であり、そこにはおおらかない私を受け入れてくれる自然がありました。
■泥団子を投げあい、文字通り土にまみれた子供の時を私に許してくれた地でした。しかし、その地で大人たちが夢中になっていたことは子供の理解を超えていました。一歩外へ踏み出すと小学校の友達に気楽に話せるものではなく、胸へしまい込みどう扱っていいのか分からないことへと変化してゆきました。

■今、私はアルバイトをしながら自分で野菜を作り、売って生活しています。畑2反(20アール)と谷津田7畝(7アール)を借り、まずは自給を中心にと考えましたが、1人分の食べものくらいならどうにかなるようです。畑はまっ白のキャンバスのようでそこへ体を投げ出すと自然が色を描き出します。田んぼは山あいの谷津田で沢水を引いて、昔から繰りり返されてきた仕事に身をひたします。大昔の人のメッセージを聞いたような気がするときもあります。自然にどっぷりとつかれることには大きな魅力を感じます。
■しかし、それを仕事として選ぼうとしたとき、別の視点を持つ必要を感じました。世の中にうんざりして、自然との関わりだけで生きて行ければと、どこか夢を見ていたのですが、社会との関わりは避けることのできないものになります。お金を得て矛盾にのみこまれそうになりながらも、あがきながらでも、もうひとつの視点をしっかりつかみたい、田畑にたてば、それができるかもしれない、見失わずにすむかもしれないと思いました。



「三里塚の野菜で育った娘」さんが
稲刈り援農にはいた翌日(9月11日)の
鈴木さん宅での作業



■そうして、まず浮かんだのは子供の頃熱く燃える大人たちを見た三里塚でした。まだ私にはとらえきれない問題ですが、とりあえずはそばにいる友達に私のルーツとして話してみたいと思ってします。あの時の大人たちが何をしようとしていたのかという疑問に、少しずつでもあたしなりの解釈がもてれば、胸にしまいこみ続ける必要もなくなる。その上で田畑に立つこれからを想像することができるかもしれない。少し勇気のいる一歩として今回この場所へ来ることを決めました。9月8日の山下惣一さんの講演会とパネルディスカッション、鈴木幸司さん宅で稲刈りの援農に参加させて頂いたこと、三里塚と関わる方々と話をして、胸にしまいこんだことが一つ一つ日の目を見たような機がしました。私は私の為めにここへ来たのだと納得できました。あの時の大人たちは当たり前のことをしようとして考えぬいた為に社会の枠からはみ出してしまい、闘わずにはいられなかった人々だったのかもしれない、それなら、どうして当たり前のことをしようとしていただけなのに深い苦しみを背おうことになってしまったのだろう。
■今後、三里塚を知るために少しずつですが関わらせていただきたいと思います。それにはまず百姓の立場をしっかりとふみかためなくちゃ。今回お世話になった方々、私のおしゃべりに付き合ってくださった方々、ありがとうございました。私は今日も田畑で静かな革命をおこします、なんてね。気がづけば季節がくるりとまわってまたタマネギをまくときがやってきました。
  2007年9月12日

  

カテゴリーにもどる

           
  • お便り・Q&A