反対同盟とは

2007年01月01日

空港反対同盟とは(2)

■三里塚の闘いの歴史は今年で41年になります。初めて聞く人には気の遠くなるような年月かも知れません。私たち反対同盟もまさかこれほどの長期の闘いになるとは、当初は考えていませんでした。2〜3年で、長くても5〜6年で決着がつく、と語りあっていました。
■「決着がつく」とはもちろん空港を追い出して、元の平和な村にもどすということです。ここで、三里塚の闘いの前史にあたる富里・八街空港反対闘争が私たち反対同盟にかぎりない力を与えてくれていたのです。
■新東京国際空港建設の検討は1962年に、当時の池田勇人内閣が始めました。11月「羽田空港が狭い」ことを理由として第2国際空港の建設を閣議決定しました。予算は1800億円。東海道新幹線なみの巨大な国家プロジェクトでした。後に成田空港建設を決めた佐藤栄作首相は「100年に1度の国策」という言葉で新東京国際空港の重みを強調しました。
■この「100年に1度」の巨大プロジェクトをめぐって、名だたる大物政治家が利権争いでうごめきスキャンダルを起こしていきました。1963年6月、建設族のボスで建設大臣だった河野一郎が埋め立て業者からの利権をもくろんで千葉県木更津沖埋め立て案を提唱します。他方、運輸大臣で佐藤派に所属した綾部健太郎は対抗して浦安沖に建設したいと主張しました。
■しかし、アメリカ軍が日本の空を占領していたことを理由とする空域の狭さが理由で、東京湾沿岸での建設案は否定され、結局1965年に、三里塚の隣である千葉県富里・八街案が閣議で内定されました。

■移転対象となった農家の数は約1000戸。その後の三里塚案が325戸ですから、いかに大規模な農民追い出し案であったかが分かります。しかも日本のデンマークと呼ばれた優良農業地帯でした。そこに突然空港計画が降って来たのです。そもそも政府の農業政策に不信感を募らせていたことも大きな背景にあって、農民たちは怒りにうちふるえました。
■農地を渡せ、ということは農民に死ねということと同じです。転業など及びもつきません。戦後の苦労の中からやっと一息つけるところまで農業を安定化させてきたところで、「空港を造るから出て行け」と言われたら、だれでも怒るでしょう。
■富里・八街農民は約1年半の村ぐるみ、部落ぐるみの闘いで空港計画を跳ね返したのです。66年2月には、1500人のデモ隊が千葉県庁に突入して逮捕者まで出しましたが、この闘いが決定打になったのです。
■ここに来て政府・運輸省は富里・八街空港計画の無謀さを知らされ、代替案の検討に入らざるをえなくなりました。

■本来ならここで、内陸空港案の理不尽を反省して、計画を一から作り直すべきだったのです。しかし、佐藤政府はそうしませんでした。内陸案を撤回して計画をねり直すのではなく、元の計画を約半分に縮小した、場当たり的な代替案を出してきたのです。こうして押し付けてきたのが三里塚空港案でした。一説には「とにかく本来の計画を半分にして完成させ、既成事実を造ってからこれを2倍に広げる」などの思惑も語られる状態だったのです。
■「空港反対同盟とは」(1)で述べたとおり、三里塚芝山地区の農民にとっても「寝耳に水」の話でした。富里・八街では「内定」の段階で地元に打診があったのですが、佐藤政府をこの農民の反対をまちがった方向に教訓化して「一気呵成に閣議決定までもちこんでしまえば、農民が抵抗する暇も気力もないはず」と、富里・八街の時よりさらにあくどい拙速計画を強行したのです。佐藤内閣は1966年7月4日の午前中に内定、午後に正式閣議決定という暴挙を強行したのです。
■「長くても5〜6年で決着がつく」という三里塚・芝山農民の自信は、すぐ隣街で展開された、上述の同じ農民の闘いが理由となっていました。実際に1年半で空港を追い出したのですから、自分たちにやれないはずがない、という気持ちでした。
■しかも、隣村でだめなものが、自分たちのところだったらなぜ良いのか、という怒りの気持ちも大きかったのです。騒音にしても環境破壊にしても交通アクセスにしても、条件は変わらないのです。さらに「三里塚は貧しい開拓農家が多いから札束には弱い」という貧農へのひどい蔑視が公然と語られていて、これも三里塚・芝山農民の怒りに火をつけたのです。(つづく)

2006年10月06日

●反対同盟とは何か(1)

●反対同盟とは何か(1)
■三里塚芝山連合空港反対同盟は、いまから40年余り前、政府が突如としてこの地に新東京国際空港をつくることを決定したとき、これに反対する千葉県成田市三里塚と同山武郡芝山町の農民を糾合して結成されて組織で、以来今日まで、全国の数多くの人々のご支援をえて、熾烈な空港反対闘争を闘いぬいてきました。

■この付近は、もともと九十九里浜海岸を間近にした北総台地とよばれるなだらかな丘陵をなし、温暖な気候にめぐまれ、古くから農業が栄えたところでした。また明治のはじめにつくられた下総御料牧場では近代的牧畜業も大いに発達していました。その豊かな自然の美しさは多くの人々に愛され、詩人の高村光太郎は「三里塚の春は大きい」という詩を遺し、戸村一作も「日本のバルビゾン」とこれを讃えました。

■ここには数百年前から続く古村で生れ育った者たちもいます。また御料牧場の土地の払い下げを受け、戦前あるいは戦後に開拓民として入植しました。いずれも様々な困難と闘いながらこの自然を愛し、この大地と格闘しながら農を営み、生活を支えてきました。
■ところが政府は、ある日突然“おまえ達の住んでいるところに空港をつくるから、すぐ出ていけ”と言い出したのです。忘れもしない1966年6月22日のことでした。もちろん事前には一言半句の相談もありませんでした。

■農民は農地あってこそ農民です。しかも農地は、永い年月の努力が注がれてはじめて人々に豊かな稔りをもたらします。空港は祖先伝来の故郷を奪い、血のにじむ開拓で築きあげたささやかな生活を根こそぎ、問答無用のやり方で奪いとるものだったのです。それは私たちから生きる糧と希望を一方的に奪い去るものでした。

■反対同盟といっても自民党支持者も社会党支持者もいました。一言で農民といっても、様々な生活があり、考え方がありました。しかし当初から空港絶対反対で結束していました。国にとってどれほど空港が必要でも、力ずくで人の生活を破壊することがどうして許せるのか。いやしくも民主主義社会でこんなことが許されるはずがない。それは共通する思いでした。

■こうして、政府の空港計画が閣議決定(1966年7月4日)されるや、われわれは各部落ごとに反対同盟をつくり、それは数日の間に三里塚と芝山町でそれぞれ一本化し、さらにそれが連合して、三里塚芝山連合空港反対同盟の結成にいたります。それは私たちの、まさにやむにやまれぬ、ギリギリの、生きるための闘いの始まりでした。(06.10.6 つづく)