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中野洋 動労千葉前委員長の逝去を悼む

  • Posted by: doumei
  • 2010年3月10日 13:47

p100308.jpg 動労千葉の中野洋常任顧問(前委員長)が3月4日、逝去されました。享年70歳でした。反対同盟も動労千葉も、まさにこれからが決戦と意気高く闘っているさなかの訃報は、悔しい限りです。
7日の通夜と8日の告別式は、本当に大勢の人々が弔問に訪れていて、故人の人柄を偲ばせるものでした。告別式には北原鉱治が弔辞を述べさせていただき、中野さんの旅立ちを見送りました。
 車の両輪として闘ってきた動労千葉と反対同盟のきずなを、ここまで築き上げてきた故人の足跡は計り知れないほど大きいものでした。反対同盟は中野さんの遺志にこたえ必ず勝利します。
 * * * *
 告別式で述べさせていただいた北原鉱治の弔辞を紹介します。
 

 中野洋さん! あなたの突然の訃報(ふほう)に大変驚いています。「早すぎる! もっともっと長く生きてほしかった」というのが率直な気持ちです。本当に惜しい人物を亡くしたと残念な思いでいっぱいです。
 思えば、あなたとの出会いは三里塚闘争が始まった翌年の1967年でした。それ以来、動労千葉と空港反対同盟は「車の両輪」として固い絆のもとで今日まで闘い続けてきました。とりわけ、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争のときには、当時の委員長であった関川さんと書記長であった中野さんの3人で深夜2時ごろまで闘争をめぐって真剣に語りあったことを鮮明に覚えています。「労働者には労働者としての闘いがある。労働者が職場を追われることは、農民が農地を奪われることと同じ。労働者の闘いと農民の闘いは一体のものだ」と、お互いの共闘関係を深めました。そして動労千葉の労働者のみなさんは鉄路を武器に、ストライキでジェット燃料貨車輸送阻止闘争に決起し、5名もの解雇処分攻撃を受けながらも三里塚闘争をわがものとして闘い抜かれました。この歴史的闘いを契機にして反対同盟と動労千葉との絆は切っても切れないものとなりました。
 しかしこの闘いに対して動労本部が「三里塚闘争との絶縁」を迫り、あらゆる妨害や破壊攻撃をかけてきましたが、これを断固としてはね返して動労千葉は本部からの分離・独立をかちとり、労農連帯を不動のものとして今日まで闘ってこられました。労働者の皆さんは「一人は万人のために、万人は一人のために」を実践して、仲間を絶対に見捨てない、裏切らない闘いを資本・国鉄当局と真っ向から対決して貫いて来られました。私たち反対同盟も国家権力と不屈・非妥協で「空港絶対反対・農地死守、実力闘争、一切の話し合い拒否」の闘いを44年にわたって貫き、今なお国策を阻み続けて、敵を追いつめています。
 あなたが先頭に立って牽引(けんいん)してきた動労千葉の闘いは、いまや韓国、アメリカ、ブラジル、ドイツなど国際連帯の拡大を切り開くに至っています。世界の労働者人民と連帯して社会を変えようという、あなたが目指した闘いは大きく発展しつつあります。
 看護にあたった動労千葉の同志から、意識が行きつ戻りつする中で、中野さんは北原の名を呼んでいたとお聞きしました。最期まで三里塚の勝利のために心を砕いて下さったことに、身の震えを抑えることができません。
 洋さん、本当に長い間頑張ってこられました。あなたが切り開いた足跡は決して消えることはありません。三里塚はあなたの遺志にこたえ必ず勝利します。そしてそれは必ずや多くの若い青年労働者に引き継がれるでしょう。どうか安らかに眠って下さい。

三里塚芝山連合空港反対同盟
     事務局長 北原鉱治

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