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弔 辞

  • Posted by: doumei
  • 2013年12月29日 23:43
 萩原進さん、あまりに突然のことで、私は今もあなたが亡くなったことが信じられません。あの日、おだやかな表情で産直の忘年会を楽しんでいたあなたは、帰りの車の中で急に具合が悪くなって,懸命の手当てもむなしくあっというまに旅立たれてしまいました。まるで夢の中の出来事のようで実感がわきません。
 闘争と農業で無理を重ねてきたことが命を縮めたのかと思うと、まわりで支えて、もっと進さんを楽にさせてやれなかったかと、ほんとうに悔やまれてなりません。
 年末最後の出荷に追われて、進さんを今日まで待たせてしまいました。
でも進さん、あなたとお別れするために、可愛い孫たちや親族のみなさん、東峰部落の人々、そして全国各地から多くの仲間が、悲しみをこらえて集まっています。私もつらい気持ちをこらえて、弔辞を伸べさせていただきます。
 
 私は進さんからほんとうに多くのことを教えられました。 いずれ家を継ぐことを決意していましたが、農業を続けることを決断できたのは、強制収用では土地を取れなくなったことと、「一緒にやろう」「一から教えるから」と言って農業をすすめる進さんの後押しがあったからでした。
 自然相手の農業は経験を重ねないと、一人前にはなれません。産直の共同生産者としての私の“今”があるのは、有機農業を続けてきた進さんの経験と指導のおかげです。私は毎日自分の畑で有機野菜を作ることに無上の喜びを感じています。
 
 しかし、その私に対して、空港会社は、「農地法で農地を取り上げる」という暴挙に出てきました。
 この時にも、進さんは私と共に農業委員会に出向き、「小作人の知らないうちに解除申請が出たことが、これまでにあったのか」と激しく問いつめ、「前例がない」ことを認めさせました。
 「市東さん、こんな理不尽なことは通用しないぞ。小作人に黙って農地を売れば、地主は村八分だ。農民の権利に直(じか)に係わるこの問題は、すべての農家の問題だ」と熱をこめて話してくれました。それから私は進さんと一緒に産直を広げ、空港会社による農地取り上げと、けんめいに闘い続けてきました。
 
 新聞の訃報に「空港絶対反対を最後まで貫いた」と紹介されていましたが、それは進さんの生き方そのものです。
 東峰は戦後入植の開拓部落です。朝星、夕星を見ながら月明かりを頼りに、地をはうようにして作った畑が、国の一方的な決定でコンクリートに埋められる、カネと暴力で村を割り、仲間を引き裂き、大騒音と衝突の恐怖で追い出そうとするやり方には、ほんとうに怒りを押さえることができません。進さんはシルクコンビナートの夢を砕かれ、反対闘争に身を投じて以後、さまざまな困難を乗り越えて、信念を貫きとおしたのです。
 
 3.11からのこの数年間、進さんは「福島・沖縄・三里塚をひとつにして闘う」とさまざまな場面で訴えてきました。そして「三里塚は過去の歴史を乗り越えて、勝利するためにあらゆる人々と連帯するのだ」と話していました。「霞ヶ関に攻めのぼる」というのはその強い想いからでした。進さんの遺言だと私は思っています。
 
 私は富夫さんと静江さん、ご家族のみなさん、そして産直消費者のみなさんとともに地道にこの地で農業を続けます。そして農地を守ります。
 誠実に農業に生きようとする者の尊厳を踏みにじり、力で押しつぶしてきたのが成田空港の歴史です。だから、47年前にあれほどの闘いが起こり、今も負けることなく闘いつがれているのです。
 
 ご参列いただいた動労千葉を始めとする労働者のみなさん、関西実行委など全国の住民運動、反基地闘争、そして学生のみなさん、私の農地を守る運動に力を注いでくれる市民のみさん。私は「空港絶対反対」の進さんの遺志を受け継ぎ、身体を張って農地を守ります。
 
 進さん、来月には5人めの孫が生まれることを嬉しそうに語っていましたね。進さんは本当に家族の皆さんを愛していたのです。先立たれることはどれほど心残りだったことでしょう。どうか天上からご家族をやさしく見守ってください。 そしてこれからの私たちの闘いをしっかりと叱咤激励してください。あなたの遺志が必ず報われる時が来ることを信じ、そのために頑張ることを心に誓ってお別れの言葉とします。
 
 2013年12月28日
 三里塚芝山連合空港反対同盟
 天神峰・市東孝雄

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