反対同盟の闘いの歴史

反対同盟の闘いの歴史

1.寝耳に水の空港計画

65年に米軍による北ベトナムへの北爆が開始される中、米軍のチャーター機の羽田空港の利用が増加し、新空港建設が本格化しました。しかし、日米安保条約による空域制限により内陸空港にせざるを得ず、千葉県北東部の農地を空港用地とすることになりました。
新空港建設計画は65年11月に千葉県富里村にいったん内定しましたが、激しい抗議で頓挫します。66年7月4日、佐藤内閣は千葉県成田市三里塚に新空港を建設すると突如閣議決定をします。その理由は御料牧場の国有地が残っていたことに加えて、貧しい開拓農民が多いので金を積めば買収できるだろうとみていたのです。

2.反対同盟の結成と闘い

66年8月22日、新空港閣議決定粉砕総決起集会に3000人が結集し、三里塚芝山連合空港反対同盟(戸村一作委員長)が結成されました。青年行動隊、婦人行動隊、少年行動隊、老人行動隊などが次々と組織され家族ぐるみの闘いが開始されました。

3.実力闘争へと発展

67年10・10外郭測量阻止闘争で機動隊の本格的な暴力が発動されました。68年に入り、成田市役所・空港公団分室を実力で封鎖する闘争が闘われました。成田市営グランドを集会場に2月26日、3月10日、3月31日と激しい闘いが闘われました。この中で共産党と決別しました。

 ●71年強制代執行阻止決戦

2月22日、第一次強制代執行。機動隊3000が投入され3月25日まで激闘が続く。7月26日には、駒井野地下壕と農民放送塔が撤去されます。
9月16日、第二次強制代執行が行われ、東峰十字路で反対派と機動隊が激突し、警官3名が死亡。20日、大木よね宅を闇討ちで代執行。
10月1日、青年行動隊の三ノ宮文男氏が「空港をこの地に持ってきたものを憎む」と抗議の自殺をしました。

4.開港阻止決戦とジェット燃料貨車輸送阻止、労働者と農民の連帯

77年1月、福田赳夫首相は「成田空港年内開港」を宣言します。同年4月17日の集会に闘争史上最大の2万3千名結集。5月6日、千葉地裁と結託した空港公団は岩山大鉄塔を闇討ち的に破壊。8日には機動隊のガス銃水平射撃で東山薫さんが虐殺されました。結局、「78年3月30日開港」という福田内閣の構想は、26日管制塔占拠闘争、25~27日の横堀要塞闘争で阻止され、5月20日「出直し開港」となります。 こうした中、航空機のジェット燃料をどうやって輸送するかという問題が浮上し、当初計画していた千葉港からのパイプライン輸送計画が、沿線住民の強い反対にあってとん挫する中で出されてきたのが、国鉄貨車での輸送計画でした。
これに対して動労千葉はジェット燃料貨車輸送阻止のストライキに立ち上がりました。動労千葉は3月1日には24時間ストを決行し歴史的な労農連帯のきずなを深めました。

5.絶対反対で同盟の団結固める

78年開港、79年戸村委員長死去という試練の過程で、政府に屈服し、政府高官と秘密取引をしたグループが同盟内の一部に発生。同時期に反対同盟の切り崩しをねらった「アメ」である成田用水攻撃も強まりました。こうした中、「空港絶対反対」の原則を変更しようとするグループが83年3月8日に同盟の分裂を強行しました。
これに対し反対同盟は、「農地死守・実力闘争・一切の話し合い拒否」の原則を再確認し、空港絶対反対で闘う農民の団結を打ち固めました。

6. 土地収用法の破たん

86年10月27日、空港公団は二期工事着工。空港公団松井和治副総裁は「土地収用法という剣を突きつけて話し合いを迫る」と言い、軒先までの工事を強行しました。
88年10月23日、住民の怒りが高まる中、収用委員会は委員全員が辞任。89年、土地収用法の事業認定が20年を過ぎてついに失効しました。ー
89~90年、政府・警察は収用法の代わりに成田治安法(成田新法)を使った団結小屋(同盟員、支援者が集うところ)破壊をくり返しましたが、反対同盟は実力闘争で攻撃をうち返しました。

7.形だけの謝罪による幕引きとの闘い

1991年から1994年まで、闘争の終結を狙った成田シンポジウム・円卓会議が行われました。政府から形ばかりの「謝罪」を引き出し「成田問題は社会的に解決した」との隅谷調査団提言を引き出すことでマスコミも取り込み、行き詰まった空港建設を進めようとしたのです。

8.暫定滑走路開港―市東さんの農地闘争

空港公団は2002年に暫定滑走路を開業、09年に北延伸滑走路の開業を強行する過程で、誘導路を「へ」の字に曲げている市東さんの畑を農地法で取り上げる訴訟を起こしました。
2006年堂本暁子千葉県知事(当時)が、NAAによる市東さんの耕作地取り上げを許可したのに対し、反対同盟は行政訴訟を提訴し闘いぬいています。

更新日: 2015年3月 7日

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